私が卒業した小学校には
校庭にトーテムポールがあった。
それは卒業生の作品で、
今考えてもずいぶん
丁寧に作られた木彫りだった。
私は通学の度に立ち止まり
(卒業したお姉さんお兄さん達は
すごいなぁ)と感心していた。
それとは別に
もう一つ、忘れられない
トーテムポールがある。
大学に入ったばかりの私が見た
大切なトーテムポールだ。
高校卒業後
絵の勉強をしたくて親元を離れ
私は盛岡で
初めての一人暮らしを始めた。
「りんご」というタイトルで
前のブログに書いた通り
私は初めて味わう岩手の冬に
完全にノックアウトされてしまった。
あの頃を思えば
今の盛岡は暖冬もいいとこ。
まるでハワイである。
昔、盛岡は今よりも
ずっとずっと寒かったのだ。
本当だよ!
だってある朝なんか
冷蔵庫に入れてない物が
一晩で全部凍った。
丸ごとの大根が凍って
表面がデコボコに!
ケロイド状になってたよ。
恐ろしや。
それを見た時は
もう涙目でヘナヘナ台所に
しゃがみ込んだ。
たぶん節約するあまり
暖房のない状態が長いので
人間だけじゃなく
家具から壁から全て
冷え切っていたのだろう。
マイナス13度の朝なぞ
朝イチの講義の
テスト会場にたどり着いた私は
手がかじかんで思う様に字が書けず
大いに焦った。
もともと小さな頃から冬になると
手足のしもやけに苦しんで来た。
末端冷え性の私の手は
いくらクリームを塗っても
ひび割れが塞がらず
常に血が滲んで、
大学生協の売店のおばちゃんに
「あなた、その手!」
と叫ばれ、心配されていた。
前のブログの言葉をくり返すが、
つくづく
「一人暮らしとは寒い事」なのだ。
そんな年の暮れ
待ちに待った帰省の時が来た。
灯りのついてる暖かい家に帰る。
ただ座っているだけなのに
人の声や気配に囲まれる。
テーブルから湯気が上がる。
圧倒的なぬくもりに
物理的にも精神的にも包まれて
目が眩むようだった。
携帯もテレビもない一人暮らしでは
自分が動かない限り
空気も暖まらず物音もしない。
私は実家のこたつにくるまり
目をとじて家族の話し声を聞きながら
ありがたさを噛み締めた。
ここはこの世で
1番暖かい場所だと思った。
しかし、
無理を言って入学させてもらった
学生の身。
何日か過ごしたら
戻らねばならない。
盛岡の寒さを面白おかしく
報告しながら、心の底では
あの寒い部屋に戻るのが辛かった。
きっと両親にもその気持ちは
丸見えだったに違いない。
帰り支度と並行して
これでもかと食品や暖かグッズが
ダンボールに詰められ
宅急便の準備がされる。
帰る当日は
小学生の1番下の妹と母が
石巻駅まで送ってくれる事になった。
「風邪ひかない様にね」
「お姉ちゃんまたね」
「ありがと!またねー!」
なるべくさりげなく
明るく別れる事で、
自分の気持ちも騙そうとしていた。
改札での別れを終えて
列車に乗り込み1人になると
急に(ひとり)がくっきりして来た。
ゴトンと列車が動き始める。
車両がホームを出て、駅から抜ける
ちょうどその辺りに空き地があった。
そこに見覚えのある人影が
2つ重なって手を振っている。
母と妹だった。
まだ列車が走り始めで
スピードを出す前だったせいか
2人の笑顔まではっきり見えた。
小さな妹を後ろから抱き抱える様に
母はかがみ、その前で妹は
思いっきり両手を広げて
手を振っていた。
小さなトーテムポールみたい。
私はびっくりして立ち上がり
窓にへばりついた。
思いっきり笑顔で、だけど
目からは涙が吹き出てしまった。
小さなトーテムポールは
ニコニコ両手を振りながら
窓の端に消えていった。
止まらない涙に辟易し
手で拭いながら
涙って温かかったんだなと思った。
ひとしきり泣いた後は
ちょっと背筋を伸ばして
(さてと、しっかりしよう)
(盛岡で、ちゃんと頑張るぞ)
と思えた。
母と妹が手を振ってくれた空き地は
整備され、
立派な駐車場になっている。
私は今もこの列車に乗ると
つい、かっての空き地だった場所を
確かめてしまう。
列車が動き出すとそこに目を凝らす。
目の前の風景のその奥に
何度も何度も
あの小さなトーテムポールが
浮かび上がってくるからだ。
「小菊は11月の花だ」
と思っている。
これに雪が降り積もるのは、まだまだ先になりそうです。