まだ我が家にテレビがあった頃、
「木登りセマン族」が出て来る番組を見た。
「木登り」と言われている訳を知って(おおー!)と思った。
普通人は、喜びで感極まった時
じっとしてられず
「イェー!」とか「キャー!」とか叫び声を上げると思う。
私なぞピョンピョン飛び跳ねちゃったりするけれど、
そんな時のこの一族の感情表現は
木に登る事なのだった。
喜びにせよ悲しみにせよ
体の中にひとつの感情がいっぱいになって、飽和状態になった時、
彼等は黙って木に登り始める。
何も話さなくてもまわりは
(ああ、あの人は今、胸がいっぱいなんだな)
という事がわかる。
その一族の人達は裸足で森の中で暮らし、年長者と女性と子供を
大切にしている。
とても用心深く、恥ずかしがりやのようだった。
一族の暮らし方を守り
拒否する時は断固としているが、
その時も大声で威嚇したりは絶対にしない。
嬉しい時も、奇声を上げて喜ぶような事はしない。
奥ゆかしいユーモアもある。
(なんて品格のある人達なんだろう)と思った。
番組のはじめは、
いきなり木に登り始める人を見て
(お⁉︎なんだなんだ⁉︎)
と笑っていた私だが、
最後はその姿を見ると切なくて
涙が出て来た。
心にひとつの思いが満ちた時、
その思いに見合うだけの表現方法を、人はどれだけ持っているだろう。
言葉に出来ない喜び。
やり切れない悲しみ。
そんな時はやっぱり
居ても立ってもいられなくて
泣く、笑う、叫ぶ。
とにかく口を開けて大声を上げたり
激しくジタバタしたり
飛び上がったり
外へ向かって感情を剥き出しにする。
感情表現は大事だ。
大きな声で、豊かな動きで表現したっていい。
しかし一方で、
この人達の静けさはどうだろう。
いっぱいの感情を1人で背負い、
黙って木に登る。
木に手足の力を、心を、受け止めてもらう。
そんな姿の中に、私はふと祖父母達を思い出すのだ。
それぞれ皆、大きな感情は1人で
静かに背負う人達だったから。
母方の祖母は、そういう時
よく畑仕事に行く。
土に、自分を受け止めてもらいに
行ったのだと思う。
祖母も彼らも、溢れて持ちきれない気持ちを、土や木に投げかけ
ひたすら手足を動かすのだ。
やがて自然にその手を止めて、
顔を上げる時が来る。
そこからは何が見えるのだろう。
きっと、胸いっぱいの
喜びや悲しみを
ひとりで受け止めた人にしか見えない、そんな風景が広がっている気がする。
盛岡の3月の雪。
なごりの雪というには
結構しっかり降ってくれたけれど
さすがに根雪にはならない。
このキラキラが見られるのも
あと少し。
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