よしもとばなな
(その頃は吉本ばなな)の
「キッチン」という小説の中に
こんなセリフが出てくる。
「どこで判断するタイプ?」
「家と住人の好みを。
トイレ見るとわかるとか、
よく言うでしょ。」
主人公は答える。
「台所。」
その家庭のあり方、空気感を
判断する場所として
台所を見てみる、というシーン。
確かに台所は、そこで生きている人の暮らしぶりが
あからさまになってしまう場所かもしれない。
急にお客様が来る時も、
玄関とお手洗いは真っ先に掃除をするけれど、
台所の在り方まで、
にわかにカッコつける事は難しい。
昔の家の間取りは、
茶の間と台所が別々の部屋に分けられ、明確に仕切られていたような気がする。
まるで舞台と楽屋裏のように。
家族で囲む食卓。
来客に振る舞う食事。
そのひと時の舞台の為に、
仕切りのこちら側では
さまざまな工夫と作業が繰り広げられる。
共に包丁を持ち、火加減を相談する者同士は、
料理以外の事もあれこれ話し合う。
野菜の泥を落とし、魚を捌き、
アクをすくいながら話をする。
台所だからこそ
話せた事もあった気がする。
きれいな気持ちだけじゃない、
すっぱりと結論が出るわけではない話を。
目を合わせなくても台所で
おしゃべりをするうちに、
何かを共有していく空気が生まれる。
ちょっと重い気持ちで始めた話も
共に一品作り上げるうちに
しだいに口ぶりは少しずつ明るくなり、
最後には笑って盛り付けをしてることもある。
作り上げられたものは
料理だけではなかったのだと思う。
今、茶の間は「リビング」と呼ばれ、台所は「キッチン」になり
「ダイニングキッチン」
という形が主流なのかもしれない。
仕切りは外された。
楽屋裏だけに流れていたものは
解放され、風通しが良くなった。
台所に立つのも女性に限った事ではなく、みんながその場所を共有する。
台所という場所は
時代やその家によって
様々な形をとり、自在に変化して行くのだろう。
それでも、共に台所に立つからこそ出来る話。
そこで生まれる親近感は
どの台所にも、ずっとあり続けるような気がする。
あけましておめでとうございます
(*'▽'*)
どんな台所の風景が広がっていますか?
小さなお鍋でも、大きなお鍋でも
1人でも誰かとでも
いい匂いの湯気が上がる台所が
あれば、泣いても同じ数だけ笑って、生きていけるような気がします。
#台所#よしもとばなな#キッチン