小さな頃から、紙とえんぴつさえあればずーっと何か描いて遊んでいた。
食事中、味噌汁を少しこぼしてしまっても、拭くより先に箸で汁を伸ばしてテーブルに何か描き始めてしまう。
教科書は落書きだらけ。
きっと絵を描くのが好きな人は皆、そんな子供時代だったんじゃないだろうか。
真っ白い紙の前で、何を悩むこともなく自由に手を動かしていた。
上手い絵を仕上げる事ではなく、描く事自体がうれしくてしかたがない。
クレヨンに、えのぐに、えんぴつに、触っていることがうれしくてしかたがない。
絵を描いている時間とは
そんな時間だった。
少しずつ不自由になったのは、
褒められたいという思いが入ってきたからだと思う。
上手になりたい。
そう願い、一つ一つ技術を身につけデッサンの勉強をした。
絵の勉強がしたくて大学に入った年、偶然通りかかった子供の絵の展覧会を見て、私はショックをうけた。
何の迷いもなく紙にぶつけられた、5歳の子の「描きたい」思いの大迫力。
恐れない、媚びない手が引いた線。色。
(うわ〜...かなわない...)
かっての自分から笑われているような気がした。
人の心を打つ絵って何だろう?
デッサンの勉強って何だろう?
大事な事って何だろう?
たくさんの?マークが頭をいっぱいにした。
悶々としていたある日、
先生が遠近法の講義をしてくれた。
遠近法は一つではないという話で目からウロコが落ちた。
エジプトの壁画のように、人を重ねて表す遠近法もあれば、石膏デッサンで学ぶような遠近法。
子供の絵のように、大好きなものを大きく描くような価値の遠近法。その他...
「たくさんの遠近法がある」
「遠近法は一つではない」
その話はそのまま、たくさんのものの見方、表現の仕方があっていいんだよと呼びかけられたような気がした。
講義の後、私は先生を追いかけて質問をした。
「いろんな遠近法があっていいなら、私がしてきた石膏デッサンの勉強って何だったのですか?」
先生はにっこり笑って、「美術を専門にやって行きたい人は、やはりデッサンの勉強は必要なのですよ。それで消えてしまう個性だったら、それまでということです。」
悶々としていたものが少しずつ消えていく。
そして私はまた、画面の前で自由になる事を思い出せる気がしていた。
あの時の先生の言葉を、
今も何度も思い出す。
「個性」といったものがどういうものなのか、
この頃ちょっとだけ腑に落ちてきたような気がするのだ。
その頃、こんな絵を描いてました。
偉大な絵本作家であり美術家の
田島征三さんが大好きで、影響を受けてました。
田島征三さんの作品は、何度見返しても心にズシンと刺さって来ます。
「しばてん」という絵本が特に好きです。
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