移動祝祭日

 ヘミングウェイの遺作を読んだ事がないのに、

言葉だけ知っていた。

 

「移動祝祭日」

 

「移動祝祭日」という本も

それを扱った映画も見た事なかったけれど、

私は、この言葉の意味を見て育った。

  

どこで?って、

実家の茶の間で。

  

うちは来客の多い家だったと思う。

教師だった父の友人、同僚の先生。

教え子のお兄さん、お姉さん。

両親は迎えた人達と一緒に、

飲んだり食べたり、

そして何より語り合った。

  

難しい言葉が混ざり、

半分以上、理解出来ない大人同士の議論であっても、

その人達が本気で自分の人生について、迷い、

何かを探そうとしている姿は、

子供にとっても

惹きつけられるものだった。

  

そこでは、日常の事や

共通の楽しみといった話題で始まったとしても、

そのうち心の底からの言葉がポツリポツリと混ざり始め、

話はたくさんの流れを作り出して行く。

  

私はその場の端っこに居座りながら、それをずっと見ていた。

  

大人の男の人が人前で涙ぐんだり、

一つの言葉や答えを探して

その場の人皆が沈黙したり、

そうやって、何かを探りながら時間が濃くなって、

話がどんどん巡って行く所を。

  

それは、ご挨拶、世間話、

近況報告からはみ出した

丸出しの時間。大事な時間。

  

その中で、

父も母も皆も探し合っていたのだ。

(自分って何なんだろう?)って。

  

毎回仲間達とやって来て

ほとんど話はせずに、ただじっと話の成り行きを聞いている人もいた。

その姿からは、目の前に起きている事を、大切だと、見届けたいと思っているのを感じた。

  

自分をさらけ出して、

気持ちを分かち合える人達と、

一緒に手探りをする時間。

その場で過ごした日々。

  

それはこの先、どこで暮らそうと、何年経ったとしても、

自分の心について回る、大切なものとなる。

それが、「移動祝祭日」だ。

  

東京で一人暮らししていた妹が急死した時、「友人です」と、たくさんの方が駆けつけてくれた。

  

年齢も仕事も環境も、みなそれぞれの人達が、ひとつの仲間として連絡を取り合い、あちこちから駆けつけ、妹との別れを悼んでくれたのだ。

  

それは、妹が中心となって

出会いを繋ぎ、集まる会を作った、共に語り合う仲間達だったらしい。

  

あの頃、私の隣にいた妹も

「移動祝祭日」の茶の間を見ていた。

  

その空気は、

ただ座っていた私達姉妹の心にも、しっかりとしみ込んだ。

  

妹もきっと東京で、自分の祝祭日を作っていたのだろう。

1920年代のフランス•パリじゃなくて
も、移動祝祭日はやって来る。