娘が遊んだ公園の箱ブランコが撤去されてもう何年もたつ。
ぽっかり空いたその場所を見ながら、娘が2歳の頃の懐かしい光景を思い出していた。
あの時、はじめは娘が何をしているのかわからなかった。
こちらに背を向けて、ブランコの上で踏ん張っている。
(自分一人で漕ぎたいのだ)
わかった瞬間、涙が込み上げて来た。
娘は公園に行くと、必ず箱ブランコによじ登り、「おかたん(お母さん)ゆらしてー!」と叫ぶ。
その度に(めんどくさいなー)と思いつつ私は箱ブランコを揺らす。
それがこれまでの日常だった。
それなのにその日は声がしない。
(なんで?)と振り返ったら、一人で揺らしたいと踏ん張っている姿があったのだ。
ほほえましく、おかしみのある姿なのに、その姿を見てたら私は笑いながら泣いていた。
オーバーな言い方かもしれないけど、一つの時代が終わったな、という事に気がついたのだ。
目の前に新しい成長を始めた娘の背中がある。
その背中は、(「おかたんゆらしてー」と叫ぶ私はもう昨日で終わったよ)と言っていた。
娘の成長を喜びつつ、私は心の中で(ちょっと待って)と叫んでいた。
急に昨日までの日常が惜しくなった。
(めんどくさいなー)とブランコを揺らしていた私は、ずいぶんと幸せな役目をさせてもらっていたのだ。
失くすまで気づかなかった。
きっとこれからも、娘の成長と共に、私の幸せな役目は一つ一つ消えていく。
無様に踏ん張る姿が愛しくて、私は心にやきつけた。
この姿も、何年か後には終わってしまった日常として思い出になっていくのだ。
うれしさとかなしさが混じって涙が出るのは、愛しいものがあるという証拠なのだろう。
泣きながらそう思っていた。
箱ブランコのあった場所に立って、思い出を反芻できるのは幸せな事だと思う。
古い殻を脱ぎ捨てるように、これからも娘はどんどん前へ歩いていく。
私は思い出をふり返り、ふり返り、その後を追いかけていくのだ。