小学校5年生の時、生まれて初めて救急車で運ばれた。
でも私はその時の事を覚えていない。
朝、気がついたら夜寝た所じゃない場所にいて、
涙目の母が「もう大丈夫だよ」と私の頭を撫でていたのだ。
真夜中に引きつけを起こして
運ばれた私は「てんかん」と診断されたらしい。
そこから、毎食後の白い粉薬、
半年に一回、仙台での検査という日々が始まった。
粉薬は薄苦くて不味いわめんどくさいわだったけれど、
半年に一回の検査はワクワクした。
眠っている状態で脳波を取る検査の為、前日の夜は公然と夜更かしを許される。
病院ですんなり眠れるように。
「早く寝なさい」と
妹達が寝かされる中、
ひとり特別扱い。
(ウフフ、しょうがないのよ、
だって検査だもん、ウフフ)と
ワクワク。
当日は当然、公然と学校を休んで一日がかりになる。
(ウフフ、しょうがないのよ)とやっぱりワクワク。
そして何よりワクワクしたのは、検査後の仙台での外食だ。
場所はいつも仙台駅のエスパル。
「お?ここにもライオンがあるじゃないか」と父が上機嫌で言ってから、検査の後はいつも
ビヤホールライオン。
父は仕事を休んで検査に付き添ってくれた。
だからその日は両親を独り占め。
父はニコニコビールを飲んで、
私と母はいろんなメニューを試して、まるで楽しい旅行みたい。
私にとって検査は、
嬉しいイベントでしかなかった。
両親は「てんかん」という診断にショックを受け、原因を調べまわり、夜二人で泣きながら話し合う事もあったらしい。
けれど私がそれを知ったのは、
ずっと後の事。
父も母も自分達の不安を私に一切見せる事なく、私の病気と付き合ってくれた。
両親が必死で作ってくれた楽しい夢の中で、自覚のないまま闘病していたのだ。
幸いな事にすっかり完治した私は、年を重ねてあの日の父のように生ビールの前でニコニコするようになった。
いつか父と、銀座ライオンのでっかい壁画の前で飲みたいと思っていたけれど、叶わなかったなぁ。
エスパルのライオンはもうなくなってしまったけど、
今でもライオンは、
私にとって特別なビヤホールだ。
#仙台エスパル#ビアホールライオン#石巻堺小児科